2024.12.27
初詣の起源には、二つの説がある。一つは、神道の「年籠り」が初詣になったという説。「年籠り」は各家庭の家長が、大晦日から元旦にかけて、その土地の氏神をまつった神社にこもり豊作や家内安全を祈願する行事だったが、やがて大晦日の夜の「除夜詣」と元旦の「元日詣」に分かれ、元日詣が初詣の原型になったといわれている。
もう一つは、お正月に各家庭の神棚や鏡餅などのお供えによって招く歳神に由来する説で、その年の福をつかさどる歳神を迎えたのち、歳神の方角(恵方)にある神社・寺院にお参りをする「恵方参り」が原型になったという。
明治時代初期までは、神道と仏教が一体化した神仏習合による信仰が一般的だったため、初詣も神道・仏教の区別のないまま定着。したがって、神社・寺院、どちらに参詣しても問題ない。参詣する先を「ご利益」で選んでも良い。
初詣では、寺社へ参拝し、お守り、破魔矢などを受けたり、絵馬に願い事や目標を書いて、今年一年がよい年であるように祈る。このとき、昨年のお守りや破魔矢を寺社に納めたきあげてもらう。
初詣は一般的に「松の内」の一月七日までに行くのがよいとされているが、十五日まででもよいとされる地方もあり、特に決められた期間はないようだ。
郷土の雄・武田信玄公を祭神として、武田三代(信虎、信玄、勝頼)の館跡、躑躅ケ崎の館跡に創建され、平成三十一年に御鎮座百年。同館は、信虎公が永正十六年に建立し、これが甲府市の始まりとして、甲府開府五百年となった。また、令和三年には御祭神信玄公生誕五百年を迎えた。境内など周辺は、戦国時代当時の面影を残し、国の史跡である。年間を通して、信玄公にあやかり家内安全、商売繁盛、学業成就などを願う参拝客が多い。
甲府市岩窪町に鎮座。ご祭神は西南の役から大東亜戦争に至るまでの国のために命を捧げられた山梨県出身の英霊二万五千六十三柱。
明治十二年、甲府市太田町に招魂社として建立され、昭和十九年、現在地に護國神社と名称を改め創建された。
ご祭神は多くの大戦において国と家族を護るために亡くなられた方々で、県民に一番身近な神様であり、兵役前には商売や農業、教師など様々な職業をされていた。家族を護る遺徳にあやかり参拝に来られる人が多い。
板垣山を背にし、大きな朱色の山門と金堂が目を引く善光寺。
今から四百年あまり前に、武田信玄が信濃善光寺大本願三十七代鏡空上人を開山に迎えて創建した。本尊の金銅阿弥陀三尊像(中尊像高一四七・二㌢)は、もと信州善光寺の前立仏で鎌倉初期の建久六(一一九五)年の造顕で、重要文化財である。
甲府成田山は明治二十二年、千葉県にある大本山成田山新勝寺の本尊不動明王の分身を祭った。真言密教。JR甲府駅近く、愛宕町の山梨英和中高に隣接した石段を上ると境内がある。
新春の「特別大護摩祈祷」は元旦から一月七日まで行われ、参列者は一年の無病息災、厄除けのお祓いを受けられる。
翌八日から四月二十八日までの百日間は「百日百座護摩祈祷」。住職が毎朝六時から護摩修行し、諸願成就を祈祷する。境内にはお百度石もある。
第十一代垂仁天皇八年正月に初めて神山の麓に祀った。今ここを山宮神社と称し、摂社である。第五十六代清和天皇の貞観七(八六五)年十二月九日、現在地に遷し祀った。甲斐国の一宮で延喜式に載る古社である。明治四年五月十四日、国幣中社に列せられた。本殿は流造銅板葺、拝殿は入母屋破風造銅板葺である。境内は三、三九五坪(一㌶余)。
景行天皇の時日本武尊により甲斐国造塩海足尼が大和の大神神社から勧請した古社である。一条天皇の時甲斐国第二宮の号を賜り、年々一宮浅間神社・三宮玉諸神社と共に甲斐国の水防の祭儀を斎行、その御幸は甲斐国内あげての大祭であった。
毎年二月八日に特殊神事湯立祭が行われ、境内において四方を天狗の舞で祓い清めた後、釜で沸かした湯を笹で参列者に振りまき無病息災を祈る。
春の例大祭で奉納される太々神楽は、元禄年間(一六八八~一七〇四)に始められた。春は桜、秋には彼岸花が境内に彩りをそえている。
日本武尊が東征の帰路において水害防止として現在地に珠を埋め、その上に土地の守り神である大国主命を祀ったことがはじまりという。
奈良時代に国司が就任した際、巡礼する順が一宮浅間神社、二宮美和神社に次いで三番目だったことから三宮玉諸神社と称されるようになった。
広く知られている「おみゆきさん」は一宮、二宮、三宮そろっての催行は明治二年に途絶えていたが、平成十五年、百三十二年ぶりに復活。「ぼんぼこさん」と呼ばれる神馬の鞍上に梵天を立てたものが担ぎ出されるなど、現在は大いに賑わいをみせている。
およそ二千年前、医薬・禁厭の守護神「少彦名命」が祀られたのが起源といわれる。各地に疾病が蔓延し悲惨を極めた折、鎮祭されたという。以来、各地の領主や武田家の信仰も厚く、国司の祈願所とされていた。
神宝はこの地で発掘され磨き出された水晶「火の玉、水の玉」。境内にある金運の御神木「金櫻」は黄金の花を咲かせることで有名である。金運、厄除けを祈願する参拝客も多く、広範な社有林と景勝・昇仙峡の清流に囲まれた神域は、全国から崇敬者が集まる山岳信仰の地となっている。
ご祭神は表筒之男命ほか四柱を祀り、武田の信奉篤く舞鶴城に鎮座されていたが、徳川築城の折、現在地に遷座された。表筒・中筒・底筒の三祭神は祓(はらいにより身心を清め健康・諸願叶う)の神であると共に、航行(交通)、学問(受験)、縁結(謡曲・高砂)の神として御神徳が高い。
甲府市の中心である太田町に鎮座し、五月の正ノ木まつりは植木市でも有名。特に商売繁昌・家運隆昌・開運のご利益がある。境内社の天満天神社は学問の神様、菅原道真公をおまつりし、合格・学業成就のご利益がある。受験シーズンには、天神様を稲積神社にお迎えし、各祈願を執り行っている。
養老二(七一八)年、行基の開創と伝えられるこの寺は、聖武天皇の勅により、柏尾山鎮護国家大善寺の寺号と勅額を賜わってから、代々の皇室、歴代の幕府の祈願所として大いに栄えた。
厨子の中には、本尊の薬師如来像と、日光菩薩・月光菩薩が安置されている。いずれもサクラ材による一木造りの漆箔像の弘仁仏で重要文化財である。左右には国重文・日光・月光菩薩、十二神将像が並び、堂内を荘厳にしている。
甲斐源氏新羅三郎義光の孫安田義定が平安末期、賀賢上人を開山として今の地に創建。大日如来、木造不動明王立像、木造愛染明王座像などが重要文化財。
三が日には、お参りした人に新春のおはらいをする。
大善寺(弁財天)、福蔵院(布袋尊)、神宮寺(寿老人)、龍光寺(福禄寿)、放光寺(大黒天)、圓照寺(恵比寿)、吉祥寺(毘沙門天)に祀られている七福神を、初詣をかねて巡拝する。例年、甘酒を振る舞うなど各寺院で趣向を凝らした接待をしている。
養老元(七一七)年に国師ヶ岳天狗尾根(奥宮)から勧請された大嶽山那賀都神社は山梨市三富地区笛吹川上流、赤の浦から山参道を渓流沿いに徒歩二十分の幽谷の地にあり、大山祇神・大雷神・髙靇神の三神を祀る山岳信仰にはじまる神社である。現在は参拝者のために参道も広く整備され、年間を通じて県内外からの参拝者が絶えることがないが、近年は子宝祈願の参拝者が特に増えている。社殿を包む杉林は霊山の趣を呈し、山野草や野鳥の宝庫となっている。
八ヶ岳南麓の大自然の中に鎮座する古神道本宮身曾岐神社。広大な赤松林を背景に本殿や火祥殿、水祥殿、瑞松宮そして池に浮かぶ日本屈指の能楽殿が甍を並べ、まさに「古事記」の世界を現出している。
火祥殿ではご神火の霊力によって神道の護摩が焚かれ、「開運来福」「家内安全」「商売繁昌」「無病息災」「災厄消除」「みそぎ祓」などのご祈願が行なわれている。毎月「二」の付く日に執り行われる霊験あらたかな火祥神事は、明けの太鼓を合図に元日午前零時から。正月三が日は毎日七回奉修され、午前と午後合わせて三回、能楽殿で巫女舞の奉納がある。
日本武尊が酒折宮へ向かう途中に立ち寄られた大塚丘を起源とする。吉田口登山道の起点にあり、江戸時代には富士信仰の中枢として栄えた。
主祭神の木花開耶姫命は大変美しい富士山の女神で、安産・火防はもとより、縁結び・子授夫婦家族円満の神としても信仰を集めている。
本殿・西宮本殿・東宮本殿は国重要文化財、境内地は国の史跡に指定されている。
甲斐国八代郡荒倉郷(現新倉地区)の氏神として慶雲三(七〇五)年に創建された。大同二(八〇七)年の富士山大噴火の際に、朝廷からの勅使による国土安泰を祈願する富士山鎮火祭が執行され、時の天皇である平城天皇より三国第一山の称号、並びに天皇の御親筆であり現在大鳥居にある勅額などが奉納された。六十年に一度斎行される式年大祭「御更衣祭」は神社で一週間潔斎しながら神様の御召になる衣を織り御更衣する特殊な神事である。
神域は新倉山浅間公園として内外より親しまれており、赤い大鳥居と戦没者慰霊の五重塔「忠霊塔」は当地のシンボルとして眺望は随一である。
文永十一(一二七四)年、当時身延の地の地頭を勤めていた南部実長公(波木井実長公・後に出家し日円聖人)が佐渡の地での流刑を終えた日蓮聖人を招き、西谷に御草庵を構え、法華経の流布と弟子信徒の育成を行った。弘安四(一二八一)年に日蓮聖人により「身延山久遠寺」と名づけられた。
日蓮聖人のご入滅以来実に七百有余年、法灯は綿々と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよぶ。総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがない。
身延山山頂(一一五三㍍)に鎮座する奥之院思親閣は、山麓の久遠寺から結ばれた身延山ロープウェイを使い参拝することが出来る。この地は日蓮聖人が両親を思い出しては遠く千葉小湊の方角を拝み追慕した霊地である。また山頂付近には日蓮聖人が植えた杉の大木が現存し霊樹として信仰されている。元日には富士山・南アルプス・八ヶ岳などを望む絶景と初日の出を見物しようと多くの人が訪れる。一月一日から九日まで新春特別加持祈祷が行われる。
大城寺は天平勝宝八(七五六)年に創設された勅願寺院。現在では禅宗・曹洞宗の寺院として、ダルマさんに関係の深い寺である。
山梨県下で多くの人と御縁を結ぶために毎年十二月三十一日大晦日に「除夜の鐘」行事を行っており、宗教、宗派、人種、喪中に関係なく来訪を受け付けるという。毎年、記念品として用意している干支の切絵は同寺院の特徴となっている。自分の干支を迎える方には是非参拝をと呼びかけている。
創建の時期は不明だが、古くより三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残る。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなった。
中世以降武士の崇敬を受け、源頼朝が源氏再興祈願をし、旗揚げ成功以来、さらに武門武将の崇敬篤く、また東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置したことからも三嶋大明神の称は広まった。平成十二年には、本殿が重要文化財に指定された。
駿河国(現在の静岡県)駿府城で晩年を過ごした家康公は遺命として久能山に眠ることを家臣に託した。家康公の没後、元和二(一六一六)年五月に着工、一年七ヶ月という短期間で建てられた。徳川家康公を祀った最初の神社が久能山東照宮である。
当時の最高技術と芸術をもって造営された社殿は、平成二十二年十二月に国宝指定された。
また日本観光地百選で一位に選ばれたことのある名勝「日本平」の山頂と結んでいるロープウェイが利用できる。
情報提供・県内外の寺院、神社