「山梨新報」2017年5月26日掲載
笛吹市御坂町井之上の小字に「姥塚(うばづか)」と呼ばれる地名がある。この地域の豪族の墓とされる約1400年前の姥塚古墳が由来とされる。この古墳には一晩で塚を築いたという山姥(やまんば)伝説のほか、愛馬を葬った聖徳太子にまつわる伝説が伝わっている。
県教委によると、姥塚古墳は直径約40m、高さ約10mの大型円墳。6世紀後半に造られたとみられ、横穴式石室は長さ約17・5m、最大高さ約4・2mで古墳時代後期では東日本随一の大きさを誇り、被葬者の権力の大きさがうかがえるといい、1965年5月に県史跡に指定された。
古墳は曹洞宗・南照院の境内にあり、「御坂町誌」によれば、同寺は慶長16(1611)年に村の統率者である今川平右衛門が建立したという。石室には聖観音がまつられ、毎年3月の第1日曜に姥塚祭りが行われている。同寺の姥塚文明住職(60)は「この古墳には山姥伝説が今日まで伝わっている」と話す。
その伝説とは、右左口村(現甲府市右左口町)の山奥に住み、山男のように大きく力持ちで「谷間の百合(ゆり)姫」と呼ばれた山姥の話。この山姥はある時、井之上(現笛吹市御坂町井之上)に、力の強い大男が住んでいるとのうわさを聞き、早速、「ニワトリが鳴くまでの一晩でどちらが大きな塚をつくれるか」と、力比べを申し入れた。
負けてしまうと思った大男は山姥の塚のそばでニワトリの鳴きまねをした。山姥は入口の穴をふさぐ最後の大石を運んでいたところだったが、ニワトリの声を聞いて負けたと思い、大石を塚の入り口に立てかけて山奥へと逃げ帰ったという。それから山姥の姿を見た人は一人もなく、塚の入り口には大石が立てかけられたままで、この塚を「姥塚」と呼ぶようになったという。(ブランコの会編著「みさかの民話」)
同町誌には山姥伝説として、記紀に記されている14代仲哀天皇5(196)年3月に、山姥が住民538人を集めてこの塚を築造した説や、山姥が自分の住み家にしようとして築き上げたが完成間近のところでニワトリが鳴いたため山に帰ってしまったなど異説もある。
一方、聖徳太子が名馬の産地である黒駒(笛吹市御坂町)から馬に乗ってこの地まで来た時、愛馬が病気で倒れ、死んでしまったため、塚を造って葬り、観音像を彫って供養したともいわれている。塚は「御馬(おんば)塚」と呼ばれ、転訛(てんか)して「姥塚」になったとする伝説もある。
姥塚住職は「規模の大きさを実感してもらうためにもぜひ見にきてほしい」と話している。
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