「山梨新報」2017年5月5日掲載
国1級河川・笛吹川の名前の由来は、得意だった笛を吹きながら濁流にのまれた母を探している途中、自身も川で死んだという民話「笛吹権三郎伝説」が有名。神事芸能に使う楽器にちなみ名付けられた説などもある。
民話では、笛吹川が子酉(ねとり)川と呼ばれていた頃、上流の三富村(現山梨市)に、権三郎という若者が母と2人で山仕事などで細々と暮らしていた。楽しみは笛を吹くことで、母も権三郎の吹く笛が好きだった。
ある時、大雨で笛吹川は荒れ狂い、濁流にのまれた権三郎は助かったが母の姿はなかった。権三郎は母を探して毎日、笛を吹きながら川沿いを行き来した。ある朝、川で権三郎の遺体が見つかった。村人は憐(あわ)れんで葬ったが、夜になると川の周辺から笛の音が聞こえ、村人たちは怖がった。話を聞いた長慶上人が読経したところ、笛の音はやんだ。それ以降、笛吹川と呼ばれるようになったという(窪田喜久子著「笛吹川沿いの民話」)。
権三郎の祖先は、後醍醐天皇の忠臣だった日野資朝朝臣(あそん)の義弟・日野河内守道義とも伝えられている。江戸時代の「甲陽随筆」によると、水泳の名人だった権三郎が川の縁で死に、夜になると川の辺りで炎が出るため、長慶寺(笛吹市春日居町小松)の住職が祈念し権三郎を水神として祭ったという。また大正時代の「東山梨郡誌」には、天正5(1577)年7月20日に権三郎が川で溺死し、小松に流れ着いたため同寺住職が葬祭して塚をつくったと記されている。この頃から子酉川の名称が笛吹川と言われ始めたらしい(1979年2月の季刊「広報かすがい」)。
権三郎の墓がある同寺の滝沢龍順住職によると、由緒書きや寺記が過去の火事で焼失したため手元になく、墓の詳細は不明だが、毎年8月8日には檀家の施餓鬼会(せがきえ)に合わせて、権三郎をしのんでいるという。墓の隣には檀家らの寄付によって92年に建てられた笛吹権三郎の石像もある。
このほか、土橋里木・土橋治重著「日本の伝説10 甲州の伝説」では、上流から中流の山梨市の差出磯の辺りは断崖のため水流が激しく、水音が笙(しょう)や笛を吹いているように聞こえるという説や、川の上流一帯は神事芸能が栄えていたため、支流に楽器にちなんだ琴川、鼓川の名前がついたのと同様、笛吹川と名付けられたとする説も有力だと紹介している。
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