「山梨新報」2017年6月30日掲載
柄杓流(しゃくながれ)川は三ツ峠から西桂町と都留市内を流れ、桂川と合流する1級河川。伝承によるとこの川から約10kmも西にある河口湖に落とした柄杓(ひしゃく)が湖底の穴を通じて流れ着いたことが名称の由来とされる。別の伝承では湖に神職が笏(しゃく)を落としたとの説もある。
河口湖は生活用水として現在も利用されているが、内藤恭義編「郡内の民話」によると昔、湖の南岸の船津(現富士河口湖町)に「筒口」と呼ばれる湖底の穴があったといい、その近くの氏神・筒口神社の柄杓を借りて住民が水をくもうとした際、落としてしまい、探し回っても見つからなかったという。ある日、下暮地(現西桂町)の住人が「川で見つけた」と同神社名の書かれた柄杓を届けに来たことから、川は柄杓流川と呼ばれるようになったという。
「筒口」に関しては、民俗学者の伊藤堅吉さんの著書「河口湖畔船津今昔物語」には湖底に6カ所あり、そのうちの一つが富士レークホテルの庭園の湖畔沿いにあり、大日如来石像がまつられていたが、現在は筒口神社境内に移されたという。
筒口とされる場所は草木が生い茂っていて同ホテルは「穴を直接確認することはできない」と話している。
また、歴史書「勝山記」(564~1563年)には文亀4(1504)年、河口湖が増水した際、筒口を開き、湖水を減水させたとする記録も残っている。
伊藤さんの別の著書「河口湖周辺の伝説と民俗」には、水をくみに来た人や湖で漁をする人が筒口に吸い込まれてしまう惨事が度々起こったため、郷主の小林尾張守正喜がうそぶき山(天上山)から切り出した松の木を投げ入れて筒口をふさいだとある。このとき神職でもあった郷主は手に持っていた笏を誤って筒口に落としたが、笏は三ツ峠の山裾の川に流れ着いたといい、川は笏が杓に変わり柄杓流川と呼ばれるようになったとも。
この川はかつて「ひしゃくながし」(県教育会南都留支会編「南都留郡誌」)と呼ばれていたが、現在は県によると「柄杓流」と書いて「〝しゃく〟ながれ」と読ませるという。
同神社は「民話に関わる遺物は残っておらず、民話を知っている人もあまりいなくなった」と話している。
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