


| 中央市(旧玉穂町)下河東880 tel 055(273)2536 | ||||||
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| 50番目の霊場は永源寺と勧盛院。ともに旧玉穂町内にあり、800mほどしか離れていない。いずれも曹洞宗の寺院で、龍華院(第46番)の末寺である。 永源寺の山門の前には広い堀があり、鯉が泳いでいる。開基は加藤梵玄。武田信長(信玄より五代前の祖・信重の兄)に仕えた武将で、自らの住居を寄進して寺を開いた。梵玄は応永24年(1417)に始まった逸見氏との戦いで活躍したと伝えられる。 900坪もの敷地を、広いところで12mもの幅の堀で囲んでいたという。 その後、荒れていた寺を龍華院の愚庵宗智が中興した。 中興開山は田中豊前守とされている。 山門の前には摩利支天、弓を持った愛染明王などの石像が並ぶ。その先、左手に地蔵堂があり「お田植え地蔵」が微笑んでいる。このあたりはかつて見渡す限りの水田で、同時に水害の多い地でもあった。永源寺も何度か水に浸っている。 | ||||||
![]() レンゲの花に彩られた永源寺 | ||||||
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地蔵堂からサクラの並木とともに歩を進めると、観音堂、本堂と続く。本堂は元禄15年(1702)に再建されたもの。 重要文化財に指定されている聖観世音菩薩は、その立ち姿が優美な曲線を描く優作である。3月の第1日曜に観音祭りがあり、ご開帳される。 かつて、普化宗(ふけしゅう)という禅宗の一派があり、甲斐にもただ一つ、永源寺の南に明暗寺があった。虚無僧(こむそう)の寺である。普化宗が明治の初めに廃宗となったため、明暗寺も廃寺になり、親寺であった永源寺に本尊の普化禅師像などを託した。この像は市の文化財に指定されている。毎年、4月29日に市の「レンゲ祭り」が開かれ、尺八愛好家の山梨如道会による虚無僧行列が永源寺と明暗寺跡の間を歩く。普化禅師像も公開される。 |
| 中央市(旧玉穂町)下三条 tel 055(273)4089 | ||||||
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| 歓盛院は永源寺の西、800mほどいった住宅街の中にある。墓地とともにブロック塀に囲まれていて、入口は南西になる。狭い道を回りこんでいくと、まず「瘡守(かさもり)稲荷大明神」が祀られていて、その奥に鐘楼、正面に本堂、その右手に庫裏が続く。 寺記によると建久5年(1194)、光照律師(こうしょうりっし)によって開かれた。当時は真言宗の寺院で金華山光照寺といった。開基は甲斐源氏の秋山太郎光朝(みつとも)。光朝は甲西町(現南アルプス市)を中心に勢力を持ち、京都・御所の警護を担当、また、平清盛の孫娘を妻に迎えるほどの豪族だったが、源平の合戦への遅れたため源頼朝にうとまれて攻められ、28歳で自害したという。 鎌倉時代、寺運が衰えた文明10年(1478)、龍華院を開いた桂節宗昌(けいせつそうしょう)の高弟・大虚自円(たいこじえん)が修築し、曹洞宗に改宗、寺名も歓盛院と改め、富田対馬守範良(とだつしまのかみのりよし)の外護を受け栄えた。富田範良がどのような人物か詳しくはわからないが、櫛形町・甲西町(現南アルプス市)一帯を支配していた大井信達に仕えた人物らしい。寺はその後も栄え、江戸時代にも歴代将軍に保護され、末寺28を数えるほどになった。 | ||||||
![]() 薬師如来座像 | ||||||
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本堂内の保存庫には、真言宗だったころの本尊で重要文化財の薬師如来像が安置されている。栃(とち)材の一木造りの彩色像で座高84.7cm。一木造りから寄木造りへ移行する時期の作で、豊満な顔だちで優美な像である。厄除け薬師とも呼ばれている。毎年10月の第1土・日曜日に祭典・法要があり、土曜日の夜に薬師如来が御開帳される。 本尊は南北朝時代に作られた華厳の釈迦如来で、これも優品。最近建て直された鐘楼には享保7年(1722)の大梵鐘がかけられ、毎日6時に時を告げている。 |