笛吹市一宮町塩田818 tel 0553(47)1283
宗派 真宗大谷派(浄土真宗東本願寺派)
本尊 阿弥陀如来
県指定文化財・教如の矢文ほか
JR中央線石和温泉駅あるいは山梨市駅から車で20分/ 「一宮中」バス停から徒歩30分
拝観料 志納
駐車場あり W.C. あり
 モモの花が咲く春には一面ピンク色になる東八代郡一宮町。超願寺は塩田の集落の中にある。県道市之蔵山梨線から東に細い通りを入っていく。境内は「チビッ子広場」に開放されていて、いくつもの遊具があり、子供たちの楽しげな声が響く。山門から入るにはさらに東に回り込む。県道に背を向けている格好だが、道路の方が後に出来たためだ。モモ畑に面した山門から境内へ。正面が本堂、右手に庫裏、南側の角に、一段高く鐘楼が立つ。超願寺には日本にただ一つといわれる、矢文が残されている。この矢文の物語には、歴史につづられる栄枯盛衰を感じずにはいられない。
 浄土真宗を開いたのは親鸞聖人(しんらんしょうにん・1173〜1262)だが、その後栄えた本願寺(京都)も衰退の憂き目を見る。弾圧され、東山大谷の廟堂を失った8世・蓮如(れんにょ)は、これを転機に日本各地へ布教に歩いた。甲斐には文安4年(1447年)に訪れ、当時、天台宗の寺院だった昌願寺を浄土真宗に改めた。これが超願寺である。


教如の矢文
 その後、本願寺は隆盛を取り戻すが、安土桃山の時代、織田信長(1557〜82)勢に大阪石山本願寺が攻められる。本願寺の呼び掛けに応え、超願寺の七世住職・喜西(きさい)は石山の籠城に加わった。攻めあぐねた信長が和睦を申し入れ休戦となったが、和睦に反対した教如(きょうにょ・当時の本願寺の門主・顕如の嫡男)らは「信長を信じてはいない。各国の門徒は命を惜しまず、本山の再興に協力してほしい」と記した文を矢に付け四方に放った。喜西は籠城に参加していたので、教如を補佐していた下間頼竜(しもつまらいりゅう)からこの矢文を手渡され、甲斐に帰って門信徒たちに披露した。喜西は、これ以前から本山と密なつながりがあったものと思われる。この矢文は県指定の文化財。公開はしていないが、写真を見ることはできる。
 門主・顕如の没後、本願寺は東西に二分してしまう。一方、戦国時代の雄・武田信玄の正室・三条夫人と、顕如の夫人とは姉妹で、何かと交渉があったようだ。しかし、武田家もやがて滅亡への歴史を歩んでいく。
 本尊・阿弥陀如来像の制作年代はわからないが、体内に稲穂が収めてあったことから仏師・恵心(えしん)の手が入っていると考えられている。


寺の東側にはモモ畑が広がる