
| 甲州市塩山小屋敷2280 tel 0553(33)3011 | ||||||||||||
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| 夢窓国師が開き、快川和尚が「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という偈を残した恵林寺は今も訪れる人があとを絶たない。放光寺から南へ600m、恵林寺への道はのどかな散歩コースである。 南北に長い寺域はまず南端の「雑華世界(ぞうげせかい)」の偏額がかかる黒門を入り、両側にスギやヒノキの生い茂った暗く長い参道を進む。200mほどで重要文化財の四脚門(赤門)。ここを入ると風景が一転して、池とツツジが配された明るく開けた広い庭園になる。庭園の東側は茶店や売店、宝物館や食事処が軒を連ねていて賑やかだ。この庭の北端に県指定文化財の三門、その向こうには開山堂、本堂、庫裏などが建っている。 寺歴は、夢窓国師が乾徳山にこもって修行していたとき、鎌倉幕府の要人で国師に帰依していた牧の庄の領主の二階堂道蘊(どううん)が元徳2年(1330)、自ら屋敷を喜捨し、国師を開山として禅院に造営したのが始まりという。 | ||||||||||||
![]() 黒 門 | ||||||||||||
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その後、武田信玄が菩提寺として外護し、京都妙心寺や五山派の高僧が招かれ、永禄7年(1564)、美濃から快川紹喜が招かれて以後は妙心寺派に定まり、甲斐臨済宗の中心的存在となった。天正元年(1573)、信玄が陣中に没するが3年間、秘喪とされた。天正4年(1576)、快川国師大導師のもとに恵林寺で葬送が行われた。 天正10年(1582)、押し寄せた織田軍に対し快川は毅然とした態度で臨み、僧侶百余人が三門楼上に閉じ込められたまま織田軍によって全山に火が放たれた。 のちに徳川家康によって恵林寺は再興され、またのちに甲斐の領主となった柳沢吉保が寺の修復をはかった。本堂裏の西側には信玄公墓所、柳沢吉保夫妻の墓がある。 裏手にある庭園は夢窓国師の築庭で国指定の名勝。庭は上段が枯山水、下段が心字池を配した池泉回遊式で、その規模の大きさと美しさは他に類を見ない。また宝物館は、恵林寺所蔵の武田氏関係の文化財や、夢窓・快川両国師、柳沢氏にかかわるものなど約100点が陳列されている。 | ||||||||||||
![]() 国指定名勝の庭園 | ||||||||||||